1922年、36歳のとき、ロンドンのホメオパシー(同種療法)病院での仕事があまりに拡大してきたため、エドワード・バッチは、自分の研究にほとんど時間が取れなくなりました。高まる名声はハーレー街の診療所でも処理しきれないほどたくさんの仕事をもたらし、そればかりか彼はノッティンガム・プレースにも小さな診療所を残していて、貧しい人たちを無料で治療していました。

7つのバクテリア・グループと7つのノソード(疾病から獲得された治療物質)に関してまだたくさんの研究が残されていましたので、ロンドンのホメオパシー(同種療法)病院専属の細菌学者、病理学者のポストを捨てて、ポートランド・プレースのパーク・クレセントにある大研究所に移りました。

1926年、40歳のとき、ロンドンのホメオパシー(同種療法)病院での研究を手助けしてくれたC・E・ウィーラー博士との共著で『慢性病ー治療に有力な仮説』という本を出版しました。この本はかなり売れ、対症療法、同種療法いずれの世界でも受け入れられました。彼の説く方法を使った誰もが満足すべき結果を得たため、その後、注射に代わって経口ワクチンが広く使われるようになりました。

次の数年間は多忙な年になり、彼はハーレー街の診療所とパーク・クレセントの研究所の間を行ったり来たりする生活を送りました。常に助手が必要になるほど仕事は増えましたが、彼自身は700人を超す医師から送られてくる標本からワクチンを製造することに没頭しました。それに加えて、海外からも医療関係者たちが訪れて、彼の治療方法を学びとるために彼の研究所で仕事を共にしました。最大多数の人が益するために、自分の発見を広く知らしめることが彼の願いでした。

当時の収入はかなりのものでしたが、彼は稼いだお金は1ペニーに至るまで研究の続行に必要な器材と助手の給与に使っていました。お金を貯めるということがほとんどなかったので、1930年に新しい仕事のためにロンドンを発ったときには、ポケットには2,3ポンドしか残っていませんでした。

彼はまた、病気に関連して、ダイエット(食養生)の効果も研究し、腸内毒素の生産量を減らすために、手を加えない食物、果物、ナッツ、シリアル、野菜をとるように提案しました。このワクチン療法と併用したダイエット(食養生)の効果について、バッチは、1924年にロンドンで開催された英国ホメオパシー(同種療法)学会で研究発表を行いました。「癌に関係する腸内毒血症」と題されたこの講演の中で、彼は、「この益は全身の改善によって得られるものであり、局所療法による結果ではない」と指摘しています。

サラダ


Bach Flower Counsel
バッチフラワーカウンセル
英国バッチセンター