1918年、32歳のとき、エドワード・バッチの仕事に新しい局面が訪れました。

ユニバーシティ・カレッジ病院の上層部が、職員全員は外部での仕事をやめて、すべての時間を病院内での仕事に従事するように命令を下しました。バッチは、時間や規則に縛られることが大嫌いだったことから、ユニバーシティ・カレッジ病院を退職することにしました。そして、腸の敗血症に関連した研究を続けるために、ノッティンガム・プレースに専用の研究所を開設し、そこで患者の診療と研究を進めることにしました。 

その翌年の3月、ロンドンのホメオパシー(同種療法)病院の病理学者と細菌学者のポストが空き、そこに就任することになりました。そして1922年までこの病院で仕事をしました。


娘のボビーと遊ぶエドワード・バッチ(1920年)
エドワード・バッチ


新しい職場で、ホメオパシーの創設者サミュエル・ハーネマンの著書『オルガノン』を読むように手渡され、心の中に疑いを持ちながら読み始めたものの、最初のページで考え方がガラリと変わり、読めば読むほど興味が高まり、ハーネマンの発見と自分の発見とが非常に似通っていることに気づきました。

医術のオルガノン第六版[改訂版] (ホメオパシー古典シリーズ)
サミュエル・ハーネマン
ホメオパシー出版
2008-08-10





ハーネマンは、バッチがつい最近まったく別な方法で発見したことを、すでに百年も昔に発見していました。彼は、慢性病と腸の毒化作用との間に緊密な関係を深め、また薬の副用から起こった改善が消えたときのみ次の服用をした方がより効果的であることを実証していたのです。ハーネマンが手に入れた治療薬にも心を動かされました。ハーネマンは病気の産物である細菌を使わず、植物や野草、苔など自然界から主に摘出した薬を使っていたのです。毒物や金属も使われていたことは事実ですが、それはごく微量であり、有害な作用が中和されるよう処理されていたのです。また、ハーネマンも、病のひとつひとつに、集合的な治療ではなく個人的な治療が必要であることを発見していたのです。

「……道理をわきまえた医師は、自分の手がける個々の症例を個人の性格に従って判断し、その個性に応じた治療を施し、個人個人に適した薬を使うものだ」
(ハーネマン著『オルガノン』第48節)

ハーネマンは、真のヒーリングの原理は、病を扱うことではなく、患者の特徴や気質、つまり精神面を扱うことであり、体の症状とは無関係にこれらのことを薬の指標として使わなければならないと述べています。この「病気ではなく患者自身を扱う」という原則は、エドワード・バッチがその後発見することになる新しい野草医学体系の基礎になりました。

本


Bach Flower Counsel
バッチフラワーカウンセル
英国バッチセンター