1930年の初め、43歳のとき、エドワード・バッチはロンドンを離れ、すべての時間を新しい仕事である野草薬の発見に注ぐ決心をしました。そこで、7つのバッチ・ノソードの処方を完成させるための残りの仕事は、彼を手助けしている医師たちに委任しました。

5月のある朝早く、バッチは友人たちに別れを告げて、ロンドンを発ちました。彼は自分が手放した地位と富に対して少しも後悔することなく大冒険に旅立ち、ウェールズの中央部まで旅して、野原に咲く素朴な花々から薬を製造しようと希望に胸を膨らませました。

ロンドンに別れを告げた今、バッチは、これまで自分を引きこもりがちにさせていた息苦しいもの、車の騒音、人混み、林立する家々を後にすることに喜びと興奮を覚えました。繊細な感性を持つ彼は、長いあいだ、静かな田園地帯や原野、森林に憧れていました。そして今、その心の願いに向かって旅を始めたことに、退屈な授業から解放された子どものような幸せな気分でいっぱいでした。

彼は、ウェールズやイギリスの南部、東部、川や海沿いなど、国中を放浪しながら、何千キロという道のりを、人と自然を観察しながら歩くことになりました。人と自然を観察し、理解を増すということが、新しい野草療法の体系化に結びつくことになります。

エドワード・バッチは、治療を職業とは考えず、聖なる芸術とみなし、この治療の仕事に携わる特権を持つ者は人に奉仕する心構えを持たなくてはならないという気持ちをますます強めていきました。健康は商品ではなく万人の権利です。それで、ロンドンを発ってから人生を閉じるまでの間、彼は患者に一銭のお金も要求せず、富める人にも貧しい人にも同等に救いの手をさしのべました。

このような日々を送っていたことから、彼は金銭の欠乏により食料や生活必需品が工面できずかなり苦しい生活を強いられましたが、彼にとってこのようなことは少しも問題ではなく、研究が阻まれることもありませんでした。

バッチの助けを有難く思う患者たちと理解ある友人たちから寄せられる寄付や贈り物で、彼はなんとか仕事を継続させることができました。このようなわけで、自分が新しい旅や仕事の新しい展開を考えているときには、必要なものをまかなうのに十分なものを与えられることを彼は知ったのでした。これによって彼は、自分が正しい方向に向かっていること、あとは全能の神に身を委ねて前進するだけだという確信を強めました。

草原


Bach Flower Counsel
バッチフラワーカウンセル
英国バッチセンター