エドワード・バッチの仕事の真の目的は、医学の知識を持つかどうかに関わらず、誰もが使える薬と治療法を確立することでした。病気の治療は、限られた人の手のみに任されるべきではない、それは治療で役に立ちたいと思うすべての心ある人の特権であると考えていたからです。

1936年1月、バッチが医師の資格を持たない人々と一緒に治療の活動を行っていたことに言及した警告書を医師会から送られてきたときも、彼はこの件についての見解をはっきりと医師会に示しました。また、医師会が彼の名前を名簿から削除すると決定しても、彼は少しも動じず、むしろそれを望んでいました。彼は自分がハーバリスト(薬草療法家)として知られることを望み、自らもそう名乗り、今後も人々が自分自身を癒せる方法を教えていくつもりでした。

バッチは、自分の名前が名簿から抹消されたことを伝える通知を受け取ったとき、今後、自分が医師として往診することができなくなったことについて、少しも困ることはないと思いました。なぜなら、これまでの経験から、真の治療成果を生み出す患者たちは、自らの意志でバッチを選んでやってくるだけの労をとった人たちであったからです。そしてこのような人は、人だかりがあまりに多くてイエスに近づく方法がなかったため、病人を寝床ごと取り上げて屋根からイエスの前に吊り下ろした人たちに似ています。(ルカ福音書第5章17節より)

1936年の夏に、彼は本の第三版の原稿を書き、これに『12人の癒し手とその他の薬』というタイトルを付けて、その年の9月に出版しました。彼は最初に発見した19種類のフラワーレメディの説明文を改訂し、後半で発見した19種類のフラワーレメディについてはできる限りシンプルな内容で書き加えることにして、誰もが簡単にフラワーレメディを使えるように工夫しました。




その後、バッチは、野草による治療と処方の仕方に関する論文『癒しの野草』を執筆する仕事にとりかかりました。彼は自分と助手たちがさまざまな場所で講演旅行をする計画を立て、1936年9月24日の50歳の誕生日には、自らウォインフォードの町で初めて講演を行いました。


田舎



Bach Flower Counsel
バッチフラワーカウンセル
英国バッチセンター